ロザン宇治原、聞け。「転売は悪ではない」
Youtubeでも動画をアップしていますのでぜひご覧ください。
ども、こうずです。 今回は「転売」というテーマで話を進めていこうと思います。 私個人の意見としては「転売は悪ではない」と思っています。
■転売は悪だという風潮
転売屋が悪⇒転売で購入する人が悪
↓
疑問
二次流通の市場というのは本来欲しいけど買えなかったものが買えるという意味で非常に重要。
■転売は悪だという意見
転売を悪だと言っている人はほぼほぼ感情的なものが原因
例えば…「転売屋が買い占めるから自分が買えなかった」という一種の被害妄想(そして言い訳、責任転嫁etc…)
、「プレ値(定価以上のプレミアム価格)を出して買うことができない(もしくは買うという決断ができない状況にある)」ためにそれでも手を出せる人に対する嫉妬」
この2パターンに大きくわけられる。
(前者は例えば抽選販売などで自分が定価で買えれば文句は言わないでしょうし、後者はプレ値でも買える経済的余裕があれば文句は言わないでしょう。)
⇒文句を言っている人は運が悪いか、経済的余裕のない人ということになります。
■転売肯定派
「転売の仕組みは資本主義である」という資本主義と共産主義(社会主義)の対比を用いる方がいます。
これに関してインテリお笑い芸人と呼ばれているロザンの宇治原氏がYoutubeにて否定的な意見を述べていました。
■ロザン宇治原氏の論法
・資本主義とは元々需要と供給のバランスで値決めがされ、需要が高ければ値段は上がり、低ければ値段が下がる。市場の原理原則に基づいて競争に勝ったところはより多くの資金を獲得できる。
・しかし近年ではその市場競争が社会のためになっているか?世のため人のためになっているか?という視点が加わりつつあるとのこと。
例
1つはスーパーがあるのは個人が野菜の生産者に直接買い付けに行く手間をスーパーが代わりに担っている。
2つめには不動産屋がなければ自分で地主に賃貸の交渉をしなければならない。
⇒これはその人が快適になるような利益を享受していて喜ばれる存在だから成り立っている。もちろんスーパーにしろ不動産屋にしろ仕入れや原価があり、そこに自身の利益を上乗せしているので原則は転売(何かを仕入れて自身の利益を乗せて誰かに売る行為)と同じだが、社会的な意義があるからそれとは違うと。
■ロザン宇治原氏の論法(続き)
・転売屋による買い占めによる利益は社会性が無く、原理が同じでも小売り業のそれとは違うという結論
※転売はマスクを買い占めたり、チケットを買い占めたり、本来買えたはずのものが転売屋によって独占され、転売屋から買うしか手段がなくなっているから、転売屋の利益というのはここでいう社会性、世のため人のための存在価値ではないから悪であるという論
■ロザンの論理には穴がありまくる
・そもそも転売屋が買い占めることという前提がおかしい。
※転売屋もマスクであればコンビニや薬局、チケットであればコンサートの主催者から購入しているわけです。購入先は基本的に一般の消費者と同じ。転売屋だけの裏ルートがあってそもそも市場に出てこないという状況の方がまだまだレアケースです。
それが先着であれば並べば買えるものもあるでしょうし、抽選であれば1人に対する当選確率は平等です。(転売屋が複数枠で応募しているから応募の分母が上がるという意見があるかもしれませんが、買えるか買えないかの抽選の確率の分母が本当に欲しい人900人転売屋100人の合計1000人でも本当に欲しい人1000人でも同じ1000人で確率は変わりません。転売屋がいなければ900分の1の確率だったのに…という結果論を用いるのであれば競争率は分母によって常に変化するので転売屋が手を出すほど人気であれば転売屋がいてもいなくてもそもそも当選しづらいわけですから、ロジックとしては疑問視しています。※上記の例で言えば1/900と1/1000で大きく当選確率が変わらないですよね?)
↓
転売屋が買い占めたせいで…というのは論理的ではないということです。
■ロザンのロジックへの反論その2
・欲しい人が買えるという意味では世のため人のためになっている
※欲しい人がプレ値を出せばほしいものが手に入るわけですから、いくら払ってでも欲しいという人にはむしろ感謝される存在なわけです。
これがスーパーや不動産屋と同等かと言われると説明が難しいですが、どこかに需要があるという意味では同等です。スーパーは近隣の住民から感謝され、入手困難なチケットはそのアーティストが好きでいくら払っても見たいという層の人たちからは入手出来て感謝される、原則は同じです。
■例えば
転売屋が5000円のチケットを50000円で売っているから見に行きたくても買えない。この理論ですが、コシヒカリが食べたいのに近所のスーパーにはコシヒカリが売っていなくてあきたこまちしか売っていない。これとほぼ同義です。前者は値段の差、後者は種類の差です。後者をよりシビアにするなら低カリウム野菜(※腎臓病の方など)が近所で売っていないから、持病があって普通の野菜を食べられない人はネットなどで買えるところから個別に購入したり専門の業者経由で仕入れざるを得ません。こうすると値段の差も、身近で買えなかったという事情もリンクしてきます。どちらも提示されている金額を払えば入手できる点も一緒です。もともと5000円のチケットを50000円で買うのも、100円で売られている野菜ではなく500円の特別な野菜を買うのもほぼ同義です。
お金を払えば買えるわけです。それが定価購入じゃないとするならばその価格に見合った事情があるはずです。上記の例で言えばチケットは買えなかった運の悪さ、並べなかった時間の無さでしょうし、野菜で言えば自身の持病という事情があるでしょう。
強運があれば買えたかもしれない、時間があれば並べたかもしれない、健康に気を付けていれば持病なんてかからなかったかもしれない…そういうハンデに対する対価がプレ値になっているわけです。
■非難を受けやすいもの
何かのレアグッズやチケットは特に反転売の声が上がりやすいです。
一方スニーカーなどはプレ値の二次流通が活発に行われているわりに反転売の声があがりません。
なぜチケットや鬼滅の刃のグッズを転売で買ったり売ったりすると叩かれ、プレ値で買ったスニーカーをYoutubeとかで紹介しているアントニーやオリラジ藤森、ヒカキンは叩かれないのか?
これは一番最初に書いた、「文句を言っている人は運が悪いか、経済的余裕のない人ということになります。」を引用するならそのような層がスニーカー好きには少ないということなんでしょう。
それに加えてスニーカーそのものに興味があるかないかも関係してきます。興味のないことは話題にすらならないですから。
■総括
というわけで上記を踏まえると「転売」自体が悪なのではなく、運の無い、経済的余裕のない、でもそれには興味があるという層が声をあげて反発し不平不満を言っていることが悪だということになります。
むしろほしいものが買えるという意味では二次流通の市場というのは欠かせません。そういうノイジーマイノリティーのせいで一律に「転売=悪」だという論調がはびこることを個人的には憂慮しています。